【故障からの復帰】最後のインターハイ予選で負傷。出場を断念したお話。

ランニング
スポーツを行うにおいて怪我は付きもの。私Pさん自身も高校生の頃、インターハイ予選で負傷をして出場を断念した過去があります。今日は故障をしてしまったときの気持ちの保ち方について、私が怪我をした時のお話と、怪我を乗り越えるまでの経緯を踏まえながら紹介します。今現在体を故障して思うように練習を行えない方に少しでもこの記事で元気を与えられればと思います。

※この記事には怪我に関する少し生々しい表現が含まれています。苦手な方はご遠慮ください。

怪我をしてしまったときに大事なことは目標を持ち続けること!

競技を続けるうえで誰しも怪我は経験するかと思います。そんなときに大事なことは焦って早く復帰するのではなく、次の目標をしっかり定めること。怪我をしたときはどうしても気持ち的にも苦しくなってしまうことがあるかと思います。しかしそこでクヨクヨしても何も変わりません。次の目標を達成するために今何をすべきなのかを考え、逆算して行動することが大切です。そうすることで気持ちを切り替えて前向きな姿勢にもなれるかと思います。

【体験談】高校生活最後のインターハイで負傷をしたお話

ここからは私、Pさんが実際に怪我をしてから復帰するまでの過去を話していきます。どのようにして気持ちを保っていたかについて具体的に紹介していますので、ぜひ最後までご覧ください。

①高校最後のインターハイ予選を迎えるまで

私が陸上競技を本格的に始めたのは高校に入ってから。当時は目立った記録も持っておらず、1年生の頃のインターハイは地区予選敗退と、県大会に出場することもできませんでした。その時の1500mの記録は4’30″くらいでした。そんな私ですが、高校から陸上競技を始めたということもあり成長速度は周りより少し早く、高校2年生の春ごろに当時の「1500mで4分1桁台で走る」という目標を達成することができました。その夏に迎えた高校総体の県大会予選では1500mで入賞を果たし、惜しくも地方大会出場とはなりませんでしたが、自分自身の成長を実感することができました。この頃から「地方大会出場」を強く意識するようになり、いつしか最大の目標となっていました。高校2年生の冬は受験勉強と並行してかなり走りこみ、高校生最後のシーズンを迎えたころには3分台突入目前というところにまで成長していました。そして5月。いよいよ最後のインターハイ路線へと突入していきます。

②インターハイの始まり。レース中に思わぬアクシデントが。

高校3年生のインターハイ地区予選は危なげなく突破。インターハイ県予選前のランキングでは地方大会出場の圏内に入っており(各県6位までの入賞者が地方大会へ出場)、いよいよ地方大会の出場が現実的になってきていました。そんな中で迎えた県予選。私は1500m一本に絞って出場していました。地方大会へ出場するためには、予選・決勝の計2本のレースを走る必要がありました。ついに予選のレースが始まる号砲がなります。予選通過に絶対的な自信があった私は序盤から積極的にレースを引っ張ります。1500mは「陸上競技の格闘技」と呼ばれる種目。レース中の接触が多く、私もスパイクで足を踏まれ、あわや転倒といったシーンもありました。足を踏まれた痛みを感じながらも、無事3位でゴールし決勝のレースへと駒を進めることができました。

決勝進出を決めた私でしたが、ゴール後にもずっと足に違和感があります。ふと足元を見ると私の目に飛び込んできたのは血まみれのスパイクと靴下。レース中は足元をみる余裕もなく、出血には気づいていませんでした。すぐに近くの水道で血を洗い流しましたが、傷口はかなり深いものでした。

③医師によるドクターストップ。出場の辞退。

足に違和感はあったものの、アドレナリンの影響もあって特別痛みを感じていなかった私は、応急手当てを済ませて決勝のレースに臨むつもりでいました。しかし、歩き方に違和感があったのか顧問はすぐに私の異変に気付きました。傷口を見せるとすぐに医務室へ行くよう促されます。顧問に連れられ医務室へ向かった私はそこでドクターストップを受けます。「高校陸上の集大成をこんな形で終えたくない」と抗議していた私に、顧問は「こんなところで無理して今後の陸上人生を終わらせて良いのか」と伝えます。最後まで抗議は続けましたが、もちろん結果は変わらず出場は辞退することになりました。この時、顧問や部活仲間の前では強がって平気な顔をしていた私ですが、事情を説明するために集団から少し離れたところで親にかけた電話で大号泣しました。陸上競技を始めてから現在までで、唯一涙を流した瞬間でした。それだけインターハイは私にとって思い入れのある大会でした。

当時はどうしても出場させてくれない医師や顧問に不満を感じていた私ですが、現在は今もなお不自由なく走ることができているのは無理やりにでも出場を止めてくれた医師と顧問のおかげだと感謝しています。

④病院での緊急手術。その後の陸上人生。

医務室ですぐに病院へ向かうように伝えられた私は顧問と1人の部員の付き添いのもと、病院へと運ばれました。電話を聞いた両親もすぐに病院へ駆けつけてくれました。病院ではすぐに手術を受けるよう言われ、結果的にくるぶしの辺りを6針縫う手術を受けました。完治までは抜糸を含めて1ヶ月半。当たり前ですがそれまでは一切の運動を禁じられました。怪我を受け入れた私ですが、私にはもう一つ懸念点がありました。それは引退のタイミング。多くの同期はインターハイ路線を最後に部活を引退していました。しかし私はどうしてもこんな形で高校陸上を終えることができなかったのです。部活に残留するとなると引退のタイミングは11月の高校駅伝。受験勉強と並行しながら競技を続けていた私にとってかなり悩ましい選択でした。完治までの1ヶ月半、悩みに悩んだ私が選んだのは「笑顔で部活を引退すること」でした。

⑤高校陸上の引退。辛くて長い、楽しい競技生活。

駅伝まで残留する道を選んだ私を待っていたのは超多忙な日々。当初から国公立大学進学を目指していた私にとってはかなり苦しい道のりです。夏休み中、練習と練習の間に汗まみれの状態で受けた学校の講習で周りの同級生に汗臭いと言われた日々は今でも忘れられません。(笑)

練習に復帰できた7月ごろから11月までの約5ヶ月間、このような勉強と陸上に追われる日々を過ごしていました。そして迎えた駅伝当日。受験勉強の最中の同級生も応援に駆けつけてくれました。結果は区間1桁順位。記録として十分満足できるものではありませんでしたが、後悔は一切なく最高の笑顔でタスキをつなげることができました。これをもって辛くて長い、でも最高に楽しい高校陸上生活が終了です。

【まとめ】どん底の状態から這い上がることができたのは目標を持っていたから

ここまでツラツラと体験談を書いてきましたが、私が伝えたかったことは冒頭にも書いた通り、「怪我をしたときに大切なのは目標を持ち続けること」です。ここまで読んでいただいた方はお分かりかと思いますが、インターハイ予選で負傷し、どん底状態だった私を前向きな気持ちにさせてくれたのは「笑顔で引退するという目標でした。この目標があったからこそ、完治までの1ヶ月半気持ちを保つことができ、復帰後もどんなに苦しくても練習に励むことができていました。

故障をすると気が滅入ってしまうのは誰でも同じです。その苦しい状態でも目標を持ち、それに向けて行動することで少しずつでも前向きになっていけると思います。現在、体を故障して練習ができていない方がこの記事で少しでも前向きな気持ちになればと思います。

p.s. 陸上競技と両立して進めていた受験勉強ですが、無事その後第一志望の国公立大学に合格することができました。陸上と勉強の両立も「大学に合格したい」という目標があったからこそ成し遂げられたのかもしれませんね。

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